Kによる考察〜吃音症状

吃音の症状

個人差はあるが、一般的(だと思われる)吃音者をとりあげる。

A段階→身近な者の模倣、あるいは親からの過度の干渉等により受けたストレスでどもりはじめる。症状は連発。「あ、あ、あのね」等(2・3歳ころか)

B段階→どもってはいても自我が発達しておらず他者を意識しないので、単に言葉で困っている程度の認識しかなく、羞恥心等はあまりみられず、平気でどもる。症状としては連発。(小学生ころ)

C段階→思春期になり、周囲を意識し出すと、どもりを隠そうとするようになり、難発になる(「・・・・僕は」等)。友人と気軽におしゃべりできない、授業で発表、朗読ができない等により、生活に困難をきたすようになる。(中・高・大学時代)

D段階→吃音は固定化される(成人吃音者)。また、このころになると、それぞれが吃音をカモフラージュする方法を習得している。主に言葉を似たような意味の言いやすい言葉に置き換える、言葉の前に「えーと」等の枕詞をつける、手や足でリズムを取るなど随伴動作を伴って発話する等である。しかし、この吃音カモフラージュ能力は、ある種の状況にしか対応できない。それゆえ、ある種の場面ではすらすら流暢に話せているように思われる吃音者が、他の場面ではびっくりするほどどもったりする。

以下、あくまでも個人差があるが、どういった場面でどういった吃音症状がでるのか列挙する。また、どもり度は★マークで示し、★が多いほど、どもる割合も高いということである。

@親兄弟、親しい友人等(★★★★☆)→対人関係における緊張があまり見られない状態。ゆえに、吃音カモフラージュ能力も緩んでおり、休んでいる。ゆえに吃音者が打ち解けてリラックスしているとき、吃音症状は表にあらわれやすい。(吃音は対人間の緊張ゆえに起こるとされているので、この事実はしばしば非吃音者だけでなく吃音者自身もおどろかせている。)
Aあまり親しくない友人、知人(★☆☆☆☆)→吃音カモフラージュ能力が一番発揮できる状態。あまり打ち解けてない知人のため、適度な対人間の緊張があり、吃音カモフラージュ能力は休んでおらず、また、会社等と違い、決められた定型文等の縛りもないため、吃音カモフラージュ能力を妨げるものも特にない。ゆえに、おそらく、このときの吃音者は、第三者の目から見てもまさか吃音者と思われないことがほとんどであり、そのことが人々の吃音に対する理解を妨げている。

B会社のスピーチ、電話等(★★★★★)
電話や会社間で主に話される内容は<用件の伝達>であって、<世間話>ではない。<用件の伝達>においては用いることの出来る語・内容等はある一定の限定された広がりしか持たず、それゆえ言い換え言葉を多用することはできず、その言い換え範囲も限定される。それゆえ吃音カモフラージュ能力は、<用件伝達>において能力を存分に発揮できない。特に電話では時間(手短な用件伝達が望まれる)+空間(少なくとも体操しながら電話等は出来ない。一般的に身体的に一ヵ所にとどまっての電話を余儀なくされる)+内容(言葉がでないからといってとりあえず他の話をするというわけにもいかない)に同時に制限がかかるため、それゆえ、ほとんどの吃音者は電話が極端に苦手である。

C番外編。歌、独り言、他の人と同時の発話(☆☆☆☆☆)
吃音者は、歌では全くどもらず、独り言、他人と同時の発話でもほとんどの場合どもらない。このことがまた吃音に対する周囲の無理解を助長しているかと思われるが、理由はこれらの場面では対人関係の構えがもはや存在していない状態だからである。個人の対人関係によって吃音が発生し、その対人関係のタイプに応じで吃音症状が変化するのだとしたら、<独り言>は対象となる相手の存在がない、<歌>はそもそも歌なので、他人に向けての会話・発話ではない、<他人と一緒に発声>は、他人と同時に発話することで、一個人の対人関係から解放され、<私>は<我々>という概念、構えにとって代わられるので、個人の対人関係を問題とする吃音はもはや出番はなくなるのである。

以上、吃音に関して述べてきたが、中にはこういった疑問を抱く方もおられるであろう。「ブルース・ウィルスやあるいは小倉智昭さんも吃音者だという。しかし、他者に対しての発話でどもりはみられない。これらはどう説明がつくのか」と。
理由を考えてみるに、おそらく、ブルース・ウィルスといった吃音者の俳優、彼らは作中の人物に同化することによって、一個人の対人関係という枠から離れられたということ、それゆえその人の口から出た言葉であっても、他人の言葉として発話できてそこに<一個人としての対人関係>が入っていないからどもることの範囲外にいるのではないかと思う。また小倉さん等の吃音の司会者の場合も同様、その構えは<一個人としての他者との対人関係>ではなく、<司会者というある役割を演じ、その役割としての他者との関係>を主としているので、<一個人としての他者との関係>において顕れる吃音は出にくいのではないかと考えられる。
by キタムラ at 2010/08/21 | コメント(3) | 会員のつぶやき
この記事へのコメント
なかなか面白い考察ですね。吃音カモフラージュという言葉が面白いですね。

1と2については、反対の吃音者もいますよね。結局、心理的な部分が発話に非常に影響しやすいということなのでしょうね。

歌とか唱和ではどもらないというのは、心理的にうまくできるという思い込みもあるのかもしれませんが、何か頼るものがあると、それに合わせることについて得意な面があるのではないかと思っています。自動だと難しいが、他動のような形になると発話しやすい等。

ブルースウィルスさんの例ではありませんが、演じるとどもらないという人がいますよね。自分じゃない他者になることで話しやすくなる。

と理解できていても、どもる時はどもるわけで、自分の名前でさえ、すらっと言えない自分に日々、苦悩しています。
Posted by ドラえもん at 2010年08月22日 13:25
コメントありがとうございます。
自分の場合だけを基準に考えていましたので、1と2が反対の方がおられる場合を想定してませんでした。
私の記述はあくまで具体例で、ある場面において吃音カモフラージュ能力がその人にとて発揮しやすいか否かで吃音度は変化する、と注記しておいたほうがよさそうですね!

大変参考になりました!

自動と他動という表現を吃音者の発話に用いるのも分かりやすくて良いと思います。

なにはともあれ吃音カモフラージュ能力をどう伸ばしたところで根本的な吃音改善にはいたらないわけですし、それこそが、流暢にすらすら話せている吃音者を苦悩させているのでしょうね。(吃音で困っていると話したところで周囲からは全く理解が得られないといった点で)
Posted by キタムラ at 2010年08月23日 06:14
吃音者と非吃音者との温度差ということでしょうね。

でも隠し続けることが必ずしも良いことではなく、自分自身においてもプレッシャーになってしまうこともあるし、対人関係を築く上で、どうしても障壁になってしまいますよね。

かといって、吃音を告白することは恥ずかしいという感情も伴い、難しい上に、先程、申し上げたように、吃音の対する認識の違い(吃音者と非吃音者かとの温度差)から、こちらが思ったような形では、相手に伝わらないという、もどかしさがどうしても生じてしまいますね。

非吃音者にとって、しゃべるということは、例えて言えば腕を動かすことと同じで、簡単なことなんですよ。(言葉を話すことも実は運動であり、言葉を巧みに操れる人は、実は運動神経も良かったりします)だからこそ、例えていれば、腕を震わせている吃音者を見て、無知な周りの人(一般の人)は、ただ、滑稽に思うだけで、それによっておこる当人の内面における苦悩なんて想像すらできないのが実際なんでしょうね。

言葉が噛むと言って、それを笑いに直結させる人にとっては、この世で言葉が噛み噛みの人間が存在することは想定外のことなのだと思います。もし仮に、そのような人がいれば、それは障害者という範疇に入れ、自分の中で納得されるのでしょうね。でも吃音者は障害者ではないところまでは、気付かれていないのでしょうけどね(笑)
Posted by ドラえもん at 2010年08月25日 00:35
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